神の目、すなわち意識
われわれはこれまでに各種の宗教的信仰で、神はあらゆる行為をも見ていると教えられてきました。しかし心はあらゆる結果(現象)の背後にある不可視な原因までも見抜かないことをわれわれは知っています。
このことは、人間は見なければならない物の半分を見ていないことを意味します。
しかし神の一結果としての人間は、神が見る物を見る可能性を持っているのです。
神が見るようにわれわれが見ないのは、われわれが生命を理解していないからです。
イエスは「あなたがたは目を持っているが、見ない」とか「盲者が盲者を導く」と言っています。
そうです。家が窓を持っているように、われわれは目を持っています。
もし窓自体が話すことができれば、「私を通じてこそ森が描かれるのだ」と言うかもしれません。
もし私が鏡になるならば、森を映すかもしれません。しかし森の生命までは映しません。
視覚器官は結果(現象)を映しているだけで、結果の生命までも映してはいないのです。
それは窓または鏡と同じです。
何かを映すためには原因がなければなりません。
久保田八郎 訳「レクチャー7●宇宙的記憶」より
《神の目・すなわち意識》
これまで我々は宗教的な真理として、神は全ての行為を知ると教えられてきました。しかしセンス・マインドはあらゆる結果の内奥にある不可視の因までも見る事は出来ません。
これは、我々が見えるもののわずか半分だけを見ているに過ぎないことを表わしています。
しかし、神の創造した一結果である我々は、神の見るものを見る可能性を持っています。
神の様に見る事が出来ないのは、我々が生命を理解していない為です。
イエスは − あなたたちは目があるのに見えない。盲人が盲人の手を引いているかのようだ − と言いました。
家に窓がある様に、我々は確かに目を持っています。
もし窓が話せるなら、自分を通して森が映し出されるのだというかもしれません。
そして、例え私が鏡になったとしても、森を映す事は出来てもその生命までも映す事は出来ません。
視覚は結果を映しますが、結果の生命までも映す事は出来ません。
窓や鏡と同じです。
しかし、映す為には因が存在しなければなりません。
篠芳史 監訳「第七課 宇宙的記憶」より
SCIENCE OF LIFE - STUDY COURSE in "LESSON SEVEN Cosmic Memory"